粄情

◎何亭慧(2008.05.13自由時報副刊)

ビニールの使い捨て手袋をつけて、わたしは赤い米の塊を縁を厚く、中央を薄く、皿状に握り、緑豆の餡をのせ、口をつまんで餡を包み、適当な形にしていく。木質の押し型は、あらかじめピーナッツ油にしっかりと付けられているが、もう一度軽くつけてから、紅粄に押し付け、つややかな亀や長寿桃を作っていく。

しかし蓬莱米と丸もち米で作った粄糰は、観光客に便利なように、蒸してあり、出来上がっていて、再び炊かなくていいが、特有の粘りと香りがない。その時、ふと心が痛んだ。わたしは頭を振りながら心の中で叫んだ。こんなんじゃない、こんな味じゃないのに。

子供の頃、年節が一番待ち遠しかった。母方の祖母がいろいろなおいしい粄餒を作ってくれた。「粄」は客家語で、各種類似の米製品を指す。赤く染めて緑豆或いは切干大根を包んだものを紅粄、粄皮は鼠蘜草の葉を入れれば緑色の捏粄(艾粄)になる。いずれも月桃葉の葉を敷いて、蒸篭で蒸して香りをつける。私は甘い草の香りの捏粄を食べるのが好きだったが、塩辛い切干大根が嫌いで、いつも残していた。あの頃、私は客家の食物は甘いものより塩辛いものが多いことを知らなかった。農耕文化には実務的(調理が簡単で、おなかいっぱいになり、塩分を補充できる)という理由からだが、甜粄(紅豆年糕)は卵と小麦粉をといてつけたものを揚げ、酸菜を包んで食べるということしか知らなかった。九層粄の味は、ブラウンシュガーを一層、塩を一層。米齊目(米苔目)、粄圓(台湾風白玉ダンゴ)と菜頭粄(大根もち)のスープは肉と乾燥蝦、韮、春菊を大鍋に加えたものだ。

「水分」が多いと水粄(碗粿)、少ないのは發粄(蒸パン)。水粄は水が多く、あまりおなかいっぱいにならない。塩味のは白くて、上に干葡萄を載せ、しょうゆをつけて食べる。私は塩味のが好きで、砂糖を加えた甜水粄は他になにもなければ食べる程度だ。黄色い發粄は伝統的なケーキのようにふわっとしているが、粘りがあり、すぐおなかいっぱいになるので、私はあまり好きではない。さまざまな米食が、田んぼで一生懸命働くための発明(目的は想像できる)だとは知らなかった。その他のデザートを食べるためにおなかいっぱいになりたくなかった。

成長して家を出てからも、店で売っている冷凍の元宵もちは好きになれなくて、甘いのは餡がないほうがいいと思った。祖母が丸めた粄圓は五元硬貨くらいの大きさで、もちもちした口感はどんな甘いスープにも合った。小豆に桂花シロップと蓮の実と白木耳、黒砂糖としょうが汁を加えたのが、私が一番好きな食後のデザートだ。塩味のは別にして、わたしはいつも祖母が作るこぶしぐらいの大きさの鹹粄圓が大好きだ。餡の材料は、ミンチと細かく切ったシイタケ、小エビ、豆干などで、葱とニンニク、胡椒を加えて、ラードと醤油で香りをつけ、スープはアヒルを煮詰めたスープに紅油葱を加えたものを使う。煮こみに時間をかけるため、粄の皮は柔らかくて粘りがあり、口感はもちもちしている。餡の肉はぎゅっと締まりがあり、食べる時には吹いて冷まさなければならない。おいしそうな香りに待ちきれず舌をやけどするからだ。

「齊粑」は閩南文化の麻糬(もち)のようなもので、餡は入れない。蒸しあがった齊粑は白くもちもちとした大きな塊で、赤ちゃんのふっくらした顔のように、思わずつねってみたくなる。祖母や母はピーナッツ粉と白砂糖を混ぜて、お皿の片隅に入れると、全員のおはしが熱気の中、激戦を始める。おはしをハサミのように交差させて、一口大に切り、傍らのピーナッツ粉をつけて食べるのだ。齊粑が好きな者はたくさん食べようと、大きな塊に切る。砂糖の粉が好きな者はたっぷりつけて、砂糖の丘をほじくる。子供たちは黄昏時ににぎやかに楽しんでも、晩御飯の時は田んぼから帰ってきたおじいさんやおじさんたちと同様にご飯を食べられる。

まさか大人になって初めて作った粄が、こんなに自分がよく知っている食べ物に似ても似つかないとは思ってもいなかった。私は、たったの一口食べただけで、観光客のために準備されているプラスティックの箱の中に入れてしまった。店のおかみさんの娘がみんなにせがまれて仕方なく、赤い粄皮は実は紅麹ではなく、赤色食用色素六号だとこっそりばらした。また、彼女は外国帰りで、客家の美食と異国風味を合わせたいと思っていると話した。私は昔ながらの客家人、例えば曾祖父が南洋に徴集された時も道々妻の作った粄を涙ながらに食べ、どんなに心を痛めたかと想像した。

白いまるまるとした齊粑が最後に擂茶(客家のお茶)に添えられて出てきた。私は自慢げに客家語でその正しい呼び名を強調した。みんな店のおかみさんの指導の下、早くも箸切り合戦が展開した。ピーナッツ粉をいっぱい付ける者、動作が早い者もいて、山のようにあったのが瞬く間にほとんどが消えてしまった。もちろん、箸を動かしながら、他人を食いしん坊だと笑うことも忘れなかった。なるほど、これが麻糬のように先に小さい塊にしない理由だ。挽いた米から作った粄は脆く、捏ねて蒸し、分け合って食べる、どれも温かさが伝わる。私は競って食べながら、黙ってこの温かさがいつまでも伝わるように願うだけだ。